MPI連載小説
NPO法人MPIの理事でありアマチュアエッセイストの重冨勝紀氏がMPI東京の為にオリジナル小説を執筆。不定期で連載します。若者必読!
【国民国家クライシス】
・第1話
空は晴れていて陽は高く、もう昼過ぎだというのにしかし空気はまだ冷たい。久しぶりに会った旧友と分かれてコートに身を包んで寒さに耐えながら官舎に戻っていく。
「白石」
別れ際に後ろから声をかけられて振り返ると黒岩が呼びかけてきた。白石が振り向くと黒岩は気がかりな言葉を投げかけてくる。
「次に会うときはまたこれまでとは違う形になるやろうな」
「ああ、そうやな」
あまり深くも考えずにすぐに相槌をうって手をあげて別れの合図を送るとまたすぐに踵を返した。
白石と黒岩がこうして昼食をとりながらゆっくりと会話するのも2年ぶりだった。二人は九州大学法学部の空手部の同期で恋人を取り合ったこともあるとても関係の深い親友同士だ。卒業後は二人とも上京してきて仕事一筋の生活を送っている。社会人になって最初の頃は二人で食事に行くこともあったがお互いに多忙でそれもすぐに滞った。白石は警察官僚で黒岩は商社マンであり、二人ともなかなか都合が合わずそうこうしているうちにこの日となった。
黒岩と別れた白石はまた銀座から霞ヶ関まで早歩きに戻っていく。職場に戻れば特別捜査本部を複数抱えており、やるべきことは山ほどある。午後に予定されている捜査会議に入る前に捜査員から次々と提出されてきた報告書をすべて読み終えておかなければならない。白石は多忙だった。
東京はとにかく多忙さがただ駆け巡っているようで、きれいに並びたてられたオフィスビルは黙っているし、人もまた静かなまま流れをなしてとにかく歩いている風景が普通だ。
最初は白石も戸惑いがあったがすぐに慣れた。むしろこの方が楽だと感じるようにもなっている。東京では博多の山笠やどんたくの風景はありえない。下町までいけば話は別だが、風景の中に人情はなくてただそこには何かの取り引きがある。靖国神社の花見の様子を見かけたことがあってそのときには少し博多の感覚に似ていると感じたが新宿御苑はやはり違う。ここは広大な東京砂漠であってすぐに知人や友人と出くわす福岡の天神とは違う。
だが、白石も今では東京の、それも霞ヶ関の風景になれるまでに東京化していた。
官舎に戻るとデスクの上の膨大な量の報告書をすさまじい速さで読み続けていた。部下が次々に報告書を持ってくる。白石は新任だということもあってか、いちいちすべての報告書を読むことにしていた。このポストにいるのも2、3年程度であるから生真面目な白石は自分の正義を貫くだけでなく完全主義もまた貫くつもりでいる。
警察庁では年に約20名ほどだけがキャリア組として採用されるのだが白石はそのエリートの中の一人だ。
警察階級には下から順番に、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監と8階級あるが、キャリア組の場合は警察大学校に入る時点で警部補となる。地方公務員やノンキャリアの場合は巡査から順番に昇格試験をクリアする必要があって昇格試験をパスできなければ永遠に巡査のままだ。巡査を10年間勤め上げれば巡査長というポストになることがあるがこれは階級ではなくただの名誉職のようなものに過ぎない。
警察官僚は官僚の中でも特にエリートとしての道を歩むべくその進路が定められている。大学を卒業後に警察大学校に入るとその時点で警部となっており、そこで3ヶ月過ごした後に現場実習を数ヶ月やってまた警察大学校で講義を受けると警部となる。それから3年程度勤務に励むとまた警察大学校で公衆を受けて警視となる。白石も今では警視である。
警察官僚のうち何人かは警視庁刑事部にいくことがあって、通常は刑事部捜査第一課にキャリア組が配置されることはないが、知能犯担当とされており、金融事件に詐欺事件、贈収賄事件や選挙違反から紙幣偽造などを主に扱う捜査二課にはキャリア組が管理官として配置されることが多い。白石は警視庁刑事部捜査第二課の管理官として赴任してきて数ヶ月のところだった。
白石は複数の事件を担当しているが、主に力を入れている捜査本部は、東京都の包括外部監査で明るみになった問題で、東京都による補助金で建設された福祉施設が不当な安さで民間法人に賃貸されているという事件だ。都議会議員や都庁職員に利権があって、民間法人から何らかの「見返り」を受けていることは想像にかたくない。
白石は幼い頃から正義感が強く、正しくあること、その規範を追求する性癖がある。
「これは間違いないな」
報告書を読んでいるうちに思わずそうつぶやいてしまった。
「白石管理官。捜査会議の時間です」
そう呼びかけられると席を立ちながら上着を着て会議室に向かった。
「岩村さん、これはクロなのでしょうが追求が難しそうですね」
「そうですね。民間法人からつついた方が楽でしょう」
岩村が白石の1、2歩後ろを歩きながら控えめに回答した。岩村は白石の指揮を補佐する役割を担う。2、3年のサイクルで移動してしまうキャリアの管理官がすべての捜査を完全に指揮するのは不可能に近いため、管理間には必ず補佐役がつく。言うまでもなく実際には彼が裏方をすべて取り仕切るのであり、たたき上げの捜査のベテランだ。
会議室に入るとすでに捜査員たちが席について白石たちの到着を待ち構えていた。白石と岩村が軽い会釈をしながら部屋に入って席に着くとすぐに岩村が捜査会議を指揮して捜査員による報告が始まった。
白石は普段どおりに報告を聞いていたが、突如として黒岩の様子が少し変だったのではないかと思い始めてしまった。よく考えてみるとなぜ突然昼食を取ろうなどと言い始めたのだろうか。連絡を取らなくなる前にも二人の都合がなかなか合わないことは多かったがその時はそんなに執着しなかった。
「それならまた今度やね。また連絡するけん」
いつも突然誘いの電話をしてきて、こちらの都合がつかないとさらりとそう言って電話を切るのがいつもの黒岩なのだが今回はいつが都合がつくのか熱心に聴いてきた。
「そんなに切羽詰った感じでもなかったし、話の内容もいつも通りやったけどな…」
そう思いながらまた捜査員の報告を聞くのに意識を切り替えて、資料に目を通し始めた。
今日はこのまま報告を聞くと別の捜査会議も予定されている。いつも通り夜までそれが続くと今度はまた別の報告書を確認する必要があるので気づけばまた終電の時間になっていることだろう。
終電になるかならないかという頃になると、黒岩が東京地下鉄・丸の内線の霞ヶ関駅で電車を降りた。階段を上り終えて地上に出てくると、久しぶりに来たな、と思う。
黒岩は法学部だったが専攻したのは政治学だ。そのため、行政の中心である霞ヶ関には興味を持っていて、何度か来たことがある。とはいっても省庁ビルの中には当然入れないため、周辺を散策して何となく雰囲気を感じただけだったが。
霞ヶ関の夜は大都会東京の中心地とはとても思えないほどに静かで、音といえば遠くから車の走る音が聞こえてくる程度だ。とても日本を動かす強力な権力がそこにあるとは思えないほどにひっそりとしていて、まるで潜水艦の中にいるかのような感覚を感じる。いや、霞ヶ関という土地は潜水艦ではなく水深が深くて少し暗く感じる海で、その深海を潜行する潜水艦のように霞ヶ関のビル群がひっそりとしているという方が適切かもしれない。事実、霞ヶ関のビル群が潜行をすることはないが、その中では潜水艦を潜行させるためであるかのように24時間体制で仕事が続く。
黒岩はビルを見上げて立ち尽くすと、じっと見つめた。ビルの窓のほとんどから明かりが見える。明かりのない窓もあるがきっと会議室か倉庫など普段は人が使わない部屋なのだろう。
今度は空を見上げると、半月に雲がかかっている。よく見えないが薄雲がたくさん出ているのだろうか、半月の明かりは少し弱々しい気がする。半月と黒岩を遮る雲はほとんど動かず長いことその場所に居座っている。雲に居座られてている半月の明かりの弱さがこの周辺の建物や植物、そして黒岩の身体にそっとまとわりついて動かさないからあたりが静かなのかもしれない。
しばらく半月にまとわりついていた雲を見上げていたが、ふと視線を地上に戻して歩き始めた。終電が終わってあとはシャッターが閉まるのを待っている地下鉄の駅を通り過ぎ、交通量の多い道路のほうへとゆっくりと、しかしその一歩一歩を確認するかのように踏みしめて進みながら東京の風景に入り込んでいった。